Chris Spedding – Mean & Moody
ハードオフでレコードを漁ってるとChris Speddingの文字が目に止まった。
Roxy MusicやBryan Ferryのツアーでギターを担当していて風貌と演奏で見逃せないアーティスト。そのVynilなんだから買わないわけにはいかない。単純に聴いてみたい。
1970 - 1972の曲を集めたものらしく、アルバムジャケットの彼の写真はBryan Ferryのツアー映像で見た姿とはかなり違う。20代のころ?モテただろうなあ。
Bryan Ferry - This Is Tomorrow(YouTube)
ギターが主役の曲ばかりなのかと想像していたけど、ポップな曲あり、ムーディーな曲あり、ロックンロールあり。ギターバリバリの曲は“Listen While I Sing My Song”くらいかな。でもいいかも。
曲目などは下記を参照のこと。
Chris Spedding – Mean & Moody(Discogs)
アルバムジャケットの裏面に長文のライナーノーツが掲載されているので読みたくて、国会図書館のOCR "NDLOCR-Lite"で読み込み、ChatGPTで翻訳してみた。下記。
1960年代の終わり頃、アンダーグラウンド/ヘヴィメタル/プログレッシブ・ロックのブームの中から登場した、派手で大胆、光速のような速さで弾きまくるギター・ヴィルトゥオーゾ(名手)たちの中でも、クリス・スペディングは間違いなく最も興味深く、技術的にも恵まれた存在の一人である。
かつて音楽誌 NME の記者ニック・ローガンが評したように、彼のキャリアは実に多彩で、これまでほとんど考え得るあらゆる音楽スタイルを経験してきた。
カントリー&ウェスタン、ジャズ・フュージョン、ハードロック、メインストリーム・ポップ、フォークロック、ヘヴィメタル、ロカビリー、パンク、ニューウェーブ、さらにはあの“ウォンブルズ”にまで関わっている。
そのため彼を称賛すること自体は難しくない。むしろ難しいのは、アルバムのライナーノーツの限られたスペースに彼の業績をすべて書ききることである。
このコンピレーションに理想的なライナーノーツを書くとすれば、彼の実績をそのまま列挙するだけで十分かもしれない。
例えば、彼が参加してきたすべてのレコーディング・セッションを一覧にできたなら、それだけでも読み物として非常に面白いものになるだろう。
しかし彼がその時代で最も引っ張りだこのセッション・ミュージシャンだったことの副作用として、クレジットに名前が載らないことが多かったり、すでに録音済みのトラックにギターを後から重ねる仕事を頼まれることも多く、自分が誰のレコーディングに参加しているのか分からないことさえあったという。
だが時系列としては少し話を先取りしてしまった。
クリス・スペディングという人物を本当に理解するには、まず彼の音楽的背景や好みについて触れておく必要がある。
彼は1943年6月、イングランドのシェフィールドに生まれた。
生まれつきの音楽家で、学生時代には学校のオーケストラでヴァイオリンを演奏していた。
1960年ごろロンドンに出てきた頃には、ティーンエイジャーとしてロックンロール・バンド「ヴァルカンズ」で演奏しながら腕を磨いた。
興味深いことに、彼は当時の「ビート・ブーム」をほとんど経験していない。
ロンドンに来るとすぐ、彼はさまざまな音楽活動に関わり始めた。
ビル・ジョーダン&カントリー・ボーイズでカントリー&ウェスタンを演奏し、同時にロンドン西部の楽器店で若いミュージシャンに教えたり、C&Wギター教本を出版したりもしている。
また、ジャズ方面でも活動し、グラハム・コリアーのリハーサル・バンドや、自身のカルテットで演奏した。
さらに1964〜65年にはP&O社の客船「ヒマラヤ号」のハウスバンドの一員としてプロ活動を行い、
クラリネット奏者ナット・テンプルなどの社交ダンス・バンドでも演奏した。
1966年になると、彼はようやくロックに本格的に関わるようになる。
アラン・プライス・セット、マンフレッド・マン、ダスティ・スプリングフィールドのツアーバンドなどで演奏した。
この頃、スタジオ仕事の面白さにも目覚め、デモ録音にも参加した(ブルース・シンガーのダナ・ギレスピーなどと共演)。
しかしそれらの録音の多くは正式には発表されなかった。
1967年にはブルース・ロックバンド スマイル に加入し、その年のワイト島フェスティバルにも出演した。
またジャズ界とのつながりから、当時イギリスで生まれつつあった「プログレッシブ音楽」シーンの前衛的ミュージシャンたちとも頻繁に共演していた。
その流れで詩人であり作詞家でもある ピート・ブラウン(クリームの多くの曲を書いた人物)と組み、自身初の本格的バンド バタード・オーナメンツ を結成する。
このバンドはEMIがアンダーグラウンド音楽のために設立したレーベル ハーヴェスト と契約し、1968年と1969年にアルバムを発表したが、音楽方針の違いから1969年夏に解散した。
しかしスペディングは一つの活動だけでは満足しない人物だった。
ジャズ界でも演奏を続け、マイク・ウェストブルック・ビッグバンドやフランク・リコッティのアルバムにも参加している。
1969年、ジャック・ブルースのソロアルバム
「Songs for a Tailor」で大半のギターを担当したことで、彼はロック界で最も注目されるセッション・ギタリストの一人として名を知られるようになった。
その後、イアン・カー率いるジャズロック・バンド ニュークリアス に参加し、1969年「Elastic Rock」、1970年「We Can Talk About It Later」に出演する。
1970〜1975年の間、彼はまさに**ロック界随一の“傭兵ミュージシャン”**として伝説的な存在となる。
ライブ活動とスタジオワークを同時にこなし、ポップからジャズ、ロックまであらゆるジャンルの録音に参加した。
彼はエルトン・ジョン、ハリー・ニルソン、ドノヴァン、デヴィッド・エセックスなど数多くのアーティストのレコードに参加し、同時に前衛的ジャズやロックの作品にも関わった。
こうした柔軟性と多才さによって、彼は非常に幅広い音楽活動を続けながらも評価を保ち続けたのである。
この時期、彼はソロ活動も開始し、ハーヴェストから
「Backwoods Progression」(1971)
「The Only Lick I Know」
というアルバムを発表した。
これらの作品では、後にエリック・クラプトンらが完成させるような、南部ロック風のゆったりしたファンキーなサウンドが聴ける。
1972年にはバンド Sharks を結成し、アルバム「First Water」(1973)を発表。
しかしメンバーの対立によりバンドは解散する。
その後ジョン・ケイル(元ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)と共に「Slow Dazzle」を制作し、ツアーでも高い評価を得た。
1975年にはヒットを狙ってシングルを制作するが最初は失敗。
しかし同年、プロデューサーのミッキー・モストの下で「Motor Bikin’」 を発表し、トップ20ヒットを記録する。
残念ながらこれが商業的成功の頂点となり、その後のシングルやアルバムはチャート入りしなかった。
その後は再びスタジオ・ミュージシャンとして活動し、ブライアン・フェリーのツアーに参加。
1976年には結成初期の セックス・ピストルズ の録音をプロデュースするなど、パンク・シーンにも関わっている。
1977年にはソロアルバム「Hurt」を発表するが、ツアーの費用を自腹で負担した結果、経済的には苦しい状況になった。
1978年以降は再びセッション活動を中心に、アメリカとイギリスを行き来する生活を送る。
1980年にはニューヨークのバンド「The Necessaries」に参加し、またソロアルバム「Guitar Graffiti」「I’m Not Everybody Else」を発表した。
1984年時点では、ポール・マッカートニーの映画「Give My Regards to Broad Street」に出演している。
追記:
1975年のインタビューで、彼は初期のソロアルバムについてこう語っている。
「僕はあの作品が好きなんだ。半分ずつ選べば、素晴らしいアルバムになると思う。」
このコンピレーションは、まさにそれを実現したものだと思う。
ロジャー・ドブソン
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